民藝旅 / MINGEI

民藝旅 vol.1 山陰・愛媛編 \10日目/【鳥取県 鳥取市】前編

4月18日 木曜日、晴れ。

いよいよ、旅の結び、鳥取県民藝美術館でのインタビュー。

フライパンで焼かれる直前のウインナーの心地。
好奇心がプリプリに膨らんで、皮がパチンと弾ける期待感。
思い出したら緊張して、例えまでヘンテコになる。

東京の日本民藝館ともちがう、独特の建物。室内は少し暗い。

緊張して、のどがキュッと狭くなる。
約束の時間まで、館内をぐるぐる見てまわった。

 

パン切り包丁、ゆみさんから教えていただいたあの、包丁の本物。

 

1階は、鳥取の民藝運動をリードした吉田璋也さんがプロデュースしたもの。
2階は、吉田さんの著書「民芸入門」で紹介された品の実物が展示してある。

 

10:30、鳥取民藝美術館 常務理事、木谷様へのインタビューが始まった。
(インタビュー内容は一部抜粋、編集しています。)

 

 

*  *  *

 

 

1. 民藝のはじまりと、鳥取のダヴィンチ吉田璋也

木谷様
木谷様
大正の終わり頃に、柳宗悦が「日本の民衆が作ったもの、誰も今まで美しいと思わなかったものの美しさ」を表すために、陶工の河井寛次郎と、陶芸家の濱田庄司の3人で『民藝』という言葉を作りました。

そして、柳たちが美しいと言っているものを民藝と呼ぼう、ということになり、「なぜ民藝は美しいのか」という民藝美論を展開していきました。

それで、色々とコレクションしてみると、柳の選んだ民藝品はだいたい江戸時代の中頃から、明治の中頃までのものが多かったのです。

 

もじゃ
もじゃ
しらなかった!

 

木谷様
木谷様
民藝の蒐集から美の解明をして、これからの工藝は、それを現代の生活の中に取り入れていくことが大切なのでは、ということで、まずは河井寛次郎や、濱田庄司という作家が民藝からインスピレーションを受けて、自分の作品に反映させていきました。

しかし、それはあくまでも美術品なので、日用品としては使えません。

 

もじゃ
もじゃ
たしかに…

 

木谷様
木谷様
そこで、職人さんによって現代の民藝品を作ることができないか、と挑戦したのが鳥取の吉田璋也というお医者さんです。

日常に使えるような値段で、(以前はなかった)陶器のコーヒーカップを作ったり、あるいは洋皿を作ったり。

そうやって、現代の生活で使えるものを作ろうということをプロデュースし始めました。昭和6年のことです。

ただ、作るだけではなくて、それを販売する組織も必要であるということで、「たくみ工芸店」、ショップを昭和7年に鳥取で作って、昭和8年に「銀座たくみ」を作るわけですね。

 

もじゃ
もじゃ
プロデュースの1年後にショップをオープンして、2年目で銀座にお店を出店したのですか…!

 

木谷様
木谷様
そうです。企画をして、職人さんにデザインを与えて、そしてそれを指導して生産もさせて、それを今度は流通に乗せて販売して、消費者の手まで届く。

そう思うと、柳が考えていた民衆的な工藝の美しさが消費者の、一般市民の生活の中に入っていくわけです。そうすると、生活が美しくなる、ということが大切だと。生活が美しくなることで、民衆的な社会がよりよくなっていくんだと。「美による社会改革運動を自分たちはやっているんだ」と、いう信念なんですね。吉田璋也さんは。

ですから、「いまの民藝品はありえないのではないか」という疑問は、実はそうじゃなくて。

例えば牛ノ戸焼という焼物がありますけれども、そこの焼物はもともと、4種類しかないんです。黒と白と緑と茶色と。赤とか黄色とかカラフルな色を使って民藝品を作ろうっていうんじゃなくて、その窯の伝統に従ってコーヒーカップを作ってみたり、あるいはお皿を作ってみたり。現代の生活に合うものを新しいくデザインして作っていく、ということをした人が吉田璋也さんというわけです。

もじゃ
もじゃ
(つまり、民藝品=柳宗悦が選んだもの、柳宗悦の美学に沿って作られたもの、の2種類があるのかな?)

 

 

 

民藝品とは、の仮定

1. 柳宗悦が選んだもの
2. 柳宗悦の美学に沿って作られたもの

 

 

*  *  *

 

 

2. 柳宗悦が選んだ物でなくても、民藝品となるのか?

 

木谷様
木谷様
柳宗悦が選んだものによる美しさを、それから新しい工藝に生かしていく。新作民藝という運動なんですね、これが実は。

 

もじゃ
もじゃ
新作を作って導くのも民藝館、と柳先生の著書に書いてあったけれども(趣味どき!の民藝特集で)「柳が選んだものが民藝品です」と書いてあったので、民藝の新作はどこへいった、なんなんだろうと分からなくて。新作民藝運動というものが…?

 

木谷様
木谷様
吉田璋也さんが展開したわけです。新しい民藝品を作っていく。そうしないと、工藝の美しさ、民藝の美しさはね…

本民藝館に展示してあるようなものが美しいもの。でもそれは、生活のなかに取り入れられないでしょう?骨董品で、一個しかないでしょう?

 

もじゃ
もじゃ
たしかに…!

 

木谷様
木谷様
柳宗悦はですね、例えばコーヒーを飲むときには、茶托。木の茶托でもって、その上に、古い古伊万里の蕎麦猪口で、竹のスプーンでコーヒーを飲んだという記録があります。

つまりね、骨董品で飲むのもいいんですけど、それって1個しかないじゃないですか。壊れちゃったら、代わりもないし。第一、高価なものだし。美術品だし。壊れちゃったらその美術品の価値も失われるし。それに数もそんなにない。ということで、現代の生活に取り入れることはできない。で、それをそうじゃない。現代の生活に取り入れなくちゃいけないんだ、という信念のもとに、新作民藝運動を展開したのが、吉田璋也さんという人なわけです。

そして、戦後になると各地で新作民藝運動がはじまりました。ただ、戦前にはそういったものはなくって、新しい新作民藝っていうのは鳥取と、島根県が中心でした。

 

もじゃ
もじゃ
山陰に(民藝の新作を)探しにきたのは、ある意味正解だったと…

 

木谷様
木谷様
山陰が新作民藝運動の始まったところですから。昭和6年ですからね。

 

もじゃ
もじゃ
今回、民藝について知りたいと言った時に、鳥取県の方からたくさんご連絡が来て…熱量が…鳥取県民の方だけが、どんどこくださったんです…

 

木谷様
木谷様
なるほど。もう一つはですね、他の地域の民藝運動ではガラスだけとか家具だけとか限られていました。しかし鳥取の場合は、吉田璋也さんが木工から染織、家具、陶芸、金工…ありとあらゆる職種、職人さんを指導していったので。

そういった意味で、種類の多さとか、規模の大きさとかいったら、他にないレベル。他を圧倒するわけですよ。

だからそういった意味で、吉田璋也の新作民藝運動っていうのは一番最初に起こったし、一番最初に成功したし、しかもデザインをするだけではなく、プロデュースや販売して言ったんです。資本を集めるとかね。

例えば、銀座のたくみだって、資本金はぜんぶ鳥取の人たちからお金を出して、銀座に出店したんですよ。

 

もじゃ
もじゃ
銀座にですか?!ひ〜〜!すごい熱量ですね。

 

木谷様
木谷様
しかも、璋也さんは、いくらお医者さんと言えど、そこまでお金はないですから、銀座に店を出すほど。今でも、銀座にショップを出すって大変な話ですよ。お店の人たちもですね、銀座の鳩居堂から1人だけ雇いましたけれども、あと全員、店長をはじめとして、鳥取から行っています。小僧さんまで。

 

もじゃ
もじゃ
ええええ?!すごい。

 

木谷様
木谷様
やっぱり、柳さんが、それを要請はしていますけれどね。鳥取の吉田君に来て欲しいと。

というのは、その当時の柳さんの思いとして、明治の中頃に全て廃れていったわけではなくて、まだ少し残っていたんですね。「残存民藝という言い方をしますけれども。

残存民藝というものを、いま、売ることを考えてあげないと、生産が止まっちゃうわけです。しかも、その残存民藝というのは、まだお値段も安い、職人さんが作るしごとばっかしですから。

だから、それを全国流通にしないと生産が止まってしまう、という危機感が柳にはあって、誰かそういった店をやってくれるものはいないか。ということを、柳は東京で考えていたわけです。

 

もじゃ
もじゃ
それをやってのけてしまうの、多才過ぎませんか?
吉田璋也さん…

 

木谷様
木谷様
そうなんですよ。すべてやってるんで。

 

もじゃ
もじゃ
お医者さんなんですよね?本業は…

 

木谷様
木谷様
そうですね。ですから、そういった意味で面白い人ですよね、吉田璋也という人は。衣食住、建築までやりますからね。(本を出しながら)これは、こっち(本)は建築専門なので、これを調べて…この冊子なんですけれども。

 

もじゃ
もじゃ
お家までデザインって書いてあって…素人なのでよくいっている意味がわからないなと。なんでお医者さんがね、お家まで作れるんだろうって…言うてみれば、吉田璋也さんは、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチくらいの多才感ですよね。

 

木谷様
木谷様
ははは、そうですね。非常に精力的に活動していますよね。理念がありますからね、「美による社会改革活動を達成するんだ」っていう。

ですから、戦前から建物の保存運動をするとかね、それから、自然保護だとか、景観を守るとか。こういったことをも昭和6年から始めているんですよね。

特に戦後になってから、日本が経済成長していくので、自然破壊、環境破壊、それから歴史的建造物の破壊、こういったことが進むんで、そういったことに関して警鐘を鳴らし、保存運動を自らもしていく、と言うことをやっていった人ですね。

単にプロデュースで民藝品をやるっていうより、なぜ民藝品を流通させようと考えたのか、生活の中に取り入れてもらおうと言うことを考えたのかということは、生活を美しくすることによって世の中は良くなるんんだ、という理念があるからです。

 

もじゃ
もじゃ
その「理念」というか…「情熱」が今も鳥取県民の方に残っているというか…

 

木谷様
木谷様
たしかに、民藝というものがいま、陶芸家の人たちが何軒も鳥取にいますし。ただ残念ながら、木工だとかね、家具だとかはなかなか、今の時代、価格が合わなくなってきていて、手仕事は。電気スタンドがなんとか作られていますけれども……

 

 

 

インタビューは、次回「民藝と工業デザイナー、鳥取 × フィンランド」へ続きます!

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